2012年2月4日(土曜日)に、福島第一聖書バプテスト教会牧師の佐藤彰先生(wikipedia)の講演会が開かれました。原発事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所から僅か5kの距離にある教会で牧師をされていた先生です。
3月11日。地震発生時、佐藤先生は千葉県に居たそうです。地震発生後教会や教会員の方々に連絡を取ろうと試みるものの連絡が取れず不安な思いを持つ所から講演が始まりました。佐藤先生自ら仰って居ましたが、各種報道で報じられている状況と実際の被災地の状況は随分違っていて、現実的には報道とは全く違う日々が繰り広げられていた、と考えて頂いて良い。と仰っていました。
思うに、報道各社も全ての地域について満遍なく報道する事は不可能であり、当時の状況を鑑みるに報道されていた地域は比較的被害が小さく、また東京をはじめとする県外からアクセス可能な地域に限って報道されて、救援, 援助が開始されていた。と言う事なのでしょう。そのため、それ以外の地域に住む方々は、報道されていた状況とはほど遠い状況に置かれていたのでしょう。
地震発生後、原子力発電所で事故が発生、住民は強制退去になった事は報道を通して僕等も知っている事です。同時に多くの男性は職を失い、女性は使い慣れた台所を失い、高校生は退学を余儀なくされたそうです。一瞬の内に財産も、暖かい団らんも失いました。
そう言う状況に置かれると、普段は温厚な人であっても、心がすさみ、口にするはずも無い言動を発したり、取るはずもない行動を行ったりする様になったそうです。キリスト教的に言えば人はそもそも罪人であるから、その罪人らしさが露呈してしまった。と言ったら良いのでしょうか。財産や団らんだけでは無く、優しさや思いやりなど心のゆとりも失い、明日への希望も持てなくなってしまうそうです。
ほとんど報道される事が無い様に思いますが、鬱病や自殺者もたくさん出てしまったうです。人が生きる上で、「明日への希望」がどれだけ大切な物なのか、考えさせられるエピソードに感じました。
東北大震災が特に悲惨さを帯びている事は、地震だけでは無く、放射能問題も加味されている事でしょう。毎日の様に報道されている、被災地のがれきを県外処分する話しがなかなか進まない事も放射能問題があるためなのは明らかです。放射能問題が無かったら復興はもっと迅速に行えているのだろうとも思います。そう言う意味でも、国や東京電力は責任を痛感すべきなのでしょう。自然災害により起こった事とは言え、表面的な問題だけではなく、心の内側を破壊してしまう様な問題をはらんでいる事を、もっと理解すべきのなのだろうと感じています。
少なくても、関東に住む人達は関東への電力供給のために必要になった施設である事ももう少し自覚すべきなのかも知れません。自己中心的に放射能を怖がっているだけでは結果的に自分で自分の首を締め付ける事に繋がりかねない様に思えます。
便利な生活を覚えてしまった堕落した僕等ですから、十分な電力供給を得られない生活を送る事には無理がある事でしょう。これは国や電力会社だけの問題では無く、庶民の問題でもあります。理想論ばかり振りかざし現実性を帯びない様な話しをするのは簡単な事ですし、無い物ねだりをするのは子供じみています。
福島第一バプテスト教会は多くの会堂を持つ大きな教会です。100年使おうとして一昨年落成したノアの箱船を模して作った礼拝堂も、もう使う事はできないでしょう。長い教会の歴史もこれで終わりかと落胆したそうですが、多くの方々の支援を受け、5つ目の新しい会堂を今年落成させるとの事です。
人は、自ら苦しい体験をしないと他の人の痛みに鈍感になってしまう。そう言う所があります。一度苦しい思いをしても時間とともに鈍感になってしまい、他人を思いやる事ができなくなってしまうのが人間的な性質と言えるのだと思います。
幸せや喜びは相対的な性質の物です。昨日感じて居た幸せも、今日は当たり前になってしまっているかも知れません。そして、もっと幸せになりたいと、果てしなく求めてしまう物です。
人にとっての本当の幸せ。と言う物がどう言う物なのか。正直良く分かりません。幸せと言うのは絶対的な指標ではなく、相対的な指標です。しかも、直前の自分と比較した時の指標であり、他人から見て「あなたは幸せだ。あなたは不幸だ。」などと言う事の出来ない事の様に思えます。
一瞬に全てを失ってしまった人にとって見れば、着古された洋服を頂戴しても感謝の一言でしょう。着替える物がなく、洗濯と言う概念も無い生活を送っている人にとっては、中古品であっても恵みです。でも、今の僕等はそれを恵みだと感じる事はできないでしょう。幸せとは絶対的な指標ではなく、相対的な指標であると言う分かりやすい事例だと思います。
彼らは確かに不幸である事は確かな物です。でも、彼らの中にある「幸せ」と思える心の思いは僕等よりずっと豊かで敏感な物である事も事実でしょう。それを知っている事って、人間にとって幸せな事なのでしょうか?それとも不幸な事なのでしようか?とても難しい疑問です。
3月11日は奇しくも佐藤先生の誕生日です。神様は、まだ佐藤先生や福島第一バプテスト教会の教会員の方々を見捨てては居ないと言う事なのでしょう。むしろ、強く励まして明日への希望が明確に与えられている様に思えます。
一瞬にして彼らは全てを失った訳ですから不幸な事は事実です。でも、今は明確で強い明日への希望が与えられている。これってもの凄い事の様に思えます。
3月11日を通して、神様は佐藤先生に新しい試練と恵み, 道しるべを与えられました。日本各地だけではなく、世界各国の教会や様々なマスメディアへこれらの事を語る事もその恵みの様に思えます。
震災から新しい会堂を作るまでの現実を、社会の流れを押さえつつ時系列にまとめられた、流浪の教会と言う本が出版されています。時系列に事実を刻銘に示されているので、キリスト教に興味が無い方であっても読みやすい作りになっています。「避難生活報告」と言うコラム風の読み物では、佐藤先生の目線で書かれた被災者の現実が書かれて居ています。多少、キリスト教的ではありますが、こう言う被災者も居たのだな。と言う目線で見る事でできるのでお薦めできます。
3月11日以前に執筆し、3月11日以降に出版予定だった、順風よし、逆境もまたよしと言うエッセイ集は、佐藤先生の意思に反して出版された本だそうです。当然、タイトルも3月11日以前に決まっていた物ではありますが、震災を予感する様なタイトルはもしかすると預言だったのかも知れません。見開き1ページ1タイトルのエッセイ集で、耳が痛い内容だったり、励ましだったり。宗教者が書いただけあって非常に濃厚な印象を与えてくれます。震災を意識して読むと、胸を抉られる様な内容もあり名著です。
1時間強の講演だったでしょうか。あっと言う間に終わってしまった。そんな印象の強い講演でした。普段の礼拝とは全く違う物ですが、色々と考えさせられた貴重な時間となりました。
最後に、震災後先生が大好きになったと言う、「遠き国や」と言う賛美歌を賛美しました。この講演が行われた教会では、普段新改訳聖書と新聖歌を使用しています。「遠き国や」と言う賛美歌は、新聖歌には収録されていない曲なので、僕は初めて聞きました。
「遠き国や」(賛美歌397番)
J.V.マーチン
遠き国や海の果て いずこに住む民も見よ
慰めもて変わらざる 主の十字架は輝けり
慰めもて汝(な)がために 慰めもて我がために
揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり
水はあふれ火は燃えて 死は手広げ待つ間にも
慰めもて変わらざる 主の十字架は輝けり
慰めもて汝(な)がために 慰めもて我がために
揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり
仰ぎみればなど恐れん 憂いあらず罪も消ゆ
慰めもて変わらざる 主の十字架は輝けり
慰めもて汝(な)がために 慰めもて我がために
揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり
※汝が : あなたの
教会で配布した、「遠き国や」の楽譜をDominoで打ち込みMP3に変換した物を掲載します。MP3プレーヤーは、Easy Musicplayer For Flash(EMFF)を使わせて頂きました。EMFFのコードは、EMFF code generatorで生成した物をブログ向けに少々変更した物を使用しています。具体的な設置方法などについては機会を作り別途説明したいと思います。
流浪の教会の65頁~でも紹介されていますが、この賛美歌は関東大震災発生時に、宣教師のJ.V.マーチンが書いた曲が後に賛美歌になった物です。多くの教会で賛美され、多くの方がブログ記事として解説を書かれています。
今回の震災では、この賛美歌に唄われている以上の様々な思いも去来する様にも思えますが、震災と言う逆境にあっても十字架の輝きに思いを寄せ、助けとして行く思いには繋がるところがあり、賛美されるのでしょう。
初めて賛美した賛美歌でしたが、歌詞も曲調も心に染みいってくる思いを持ちました。


)だったりします。仕事上、
こう言った事もメモって置いた方が良かったりしカテゴリを追加ます。